2006年10月15日日曜日

向井亜紀さんの気持ちはわかる でも答えはNOだ

先日、憧れの後ろ子乗せ(自転車の後ろに子どもを乗せられる籠)をつけた。 お買い物にも使えるのである。 で、時々預かる友達の3歳の子を後ろに乗せて自転車でお話しながら走っていたら、私も思わず涙が出そうになった。

 少年が私をお母さんと間違えてママと言ったりする。 可愛くて可愛くてたまらない。
 この切なさ。その小さい手がしっかりと私の手を握るとき、胸が締め付けられる。
 
 これは、私の本能なんだ。
 本来、持つべき、この女の幸せをもぎ取られた辛さ。 それは、友達の子どもであって、どんなに彼が私を好きになってくれても私の子どもではない。

私は流産してから少し精神的におかしいところがあるなと思う。
最近でこそなくなったけど、新幹線でお母さんに抱かれている赤ちゃんを見て泣いている自分がいた。 

 だから、私は向井亜紀さんの気持ちがわかる。彼女がムキになって取りつかれたように記者会見で話す姿を痛々しいと思うのは私だけじゃないと思う。 子宮を失った女性の気持ち。子どもが欲しくてもできない辛さ。これは本能のウズキなのだ。

 向井さんは言う。「医学が発達した現代、法律を見直すべきだ」

 でも、それは、あなた…違うと思うよ。
 でも、それを、思いこんでいるあなたにはわからにかもしれない。

そういう可哀相な人の必死の形相を、どうしても大衆としては「高裁が認めたのだから入籍を認めてあげて」というのも、これもまた人情なのである。

 でも。 1000万円のお金を使い、アメリカ人でも、インド人でも、お金が欲しい女の人に受精卵を埋め込んで出産してもらうということ。それを、実際に目の当たりにしたら人間として違和感を感じてしまうというホンネを感じている人は少なくないと思う。 +

 それは、臓器をもらって生きながらえたいという生への執着という本能よりも、もっと私は罪は深いと思うのだ。人間の都合で自在に命を作れるとうことなのである。


 どうしようもない運命というものがある

サバンナに生きるライオンが、4匹の子どもを育てようとして、それぞれを大切に育てるけれど、ちょっと目を離したスキにピューマに1匹が襲われてケガをしてしまったのをテレビで見た。

 母親は最初、賢明に痛みにあえぐ子どもをなめて元気付けようとするが、もはやこれまでだと思うと顔をやさしく口ではさんで呼吸を止めて赤ちゃんを殺した。 ピーピーと泣く声がやがて小さくなって消えていった。 そして、その赤ちゃんの死骸の匂いを消すために、母親は、殺したばかりの赤ちゃんを食べてしまうのである。

 その一連の他の命をつなげるための行為を私は涙と感動をもって見た。

 命は現実の厳しさを抱えている。 それは神様のいたずらかもしれない。
 
永遠の命なんてないし、完全な誕生というものもない。命というのは性懲りもなくさもしく、だからこそ貴重で、そして、やっぱりはかないのである。

 代理出産が認められたことになれば、ますますお金持ちが命を自由にしていく。

 人間の腹を借りるのは倫理に反するなら、じゃ、ブタのおなかを借りる技術はできないだろうか?
 試験管の中で全部作れないだろうか?

 バイオの技術で卵子すらいらない、精子だけでクローン人間を作ることだって可能になるかもしれない。
 いったいどこで線を引いたらいいのか?
 
 
 子どもが欲しいという女の本能と命を操作することへの恐れおののく命の本能。
 どっちが重んじられるべきか?

私は最高裁までそれを問いただすことは正しい判断だと思う。


思いこんでいる人間ではなく、一般の大衆の正直な感覚を勇気を出して言うべきだろう。

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