2007年3月26日月曜日

コーチャンの知的障害について

知的障害というのは、確かに脳の障害なんだろうなと私は思う。

小さい頃から私は、オセッカイの血筋からかクラスに一人とか二人とかいる知的障害の子に熱心に世話するというようなことをやっている子だった。

その関係か、小学校の頃から人に物を教えるということに興味があり、また脳というものにも興味がものすごく出て、小学生ながら天才児教育の本などを読み漁ったりしていたのである。 赤ちゃん教育とか、胎児は天才とか、小学生の頃から必ず自分の子どもが生まれたら天才児教育をするぞと思っていたのだった。 が、妊娠しなかった。 人生はイタズラである。

まぁ、そういうわけで私は教育に実はとても興味があるのだ。

で、コーチャンは自分が知的障害というのをよくわかっている。何を隠そう私がそれを彼に教えた。 ある時、彼は私に「僕は賢い?」と聞いてきたのだ。その時、彼は私に本当のことを言って欲しいんだと思った。「確かにコーチャンはお友達がきることがすぐにはできないが、必ずがんばったらできるんだよ」と教えたのだ。
あの時、彼はとても泣いたが、それ以来、一度もそれを辛いことと言うことはない。コンプレックスも彼にはない(ようにふるまっているのかもしれないが)。

私は、いろいろ考えたが、結局、普通の子として接することにしている。 アホやなぁと思ったらズバリと「アホかオマエは」と言うことにしている。 それは確かに彼にはキツイ冗談かもしれないが、彼は将来必ず辛い思いをすることになる。 その時に立ち向かう力を持って欲しいのだ。


 で、実際、彼は知的障害は確かにあるが、本当に脳の「理解力に障害」があるだけだと思う。

 信じられないかもしれないが、彼は 例えば1+2 を3と理解しているのではなく、暗記しているのである。 2+2と言われたら4と答えたらいいと、まるで言葉のように覚えているだけなのである。 そのため、数が大きくなっていくとどんどんわからなくなる。

 3+2=5 というのはできるが、「3にいくつ足したら5になる?」と聞いたらわからない。 彼は言葉の形を覚えたり、パズルを覚えたりするのはとても得意で好きだが、理論的な理解力に大きな障害がある。

 普通、5という数字を覚えるときに、5というものは1つのものが5個ある状態であるというのを、我々は無意識に考える、3+2は5というのも、そろばんの玉のような感覚が頭の中に浮かんでくる。 7だったら5と2の組み合わせが7であるというのも、意識して覚えようとしなくてもわかるのだが、コーチャンの場合は、それをまるごと覚えてしまうので、応用がきかない。 6の次が7だというような言葉として彼は覚えているようなのだ。

 学校でもタイルを使って勉強しているようであるが、彼は大きさの認識がとても苦手だ。

 でも、彼の障害はある意味それだけなのである。

私は、時間がかかるかもしれないが、必ず彼は日常生活には問題のない程度の学力を得られるのではないかと思っているので、決して褒めたりしない。 常に高い目標を与えて激励して漢字の練習などをたまに会ったときには必ずすることにしている。

 彼はやたら「できる!こんなの!ドンマイケル!」とかふざけて見せるのであるが、
私が「そういうのがアホというのや。なめてかかってどうするんや。頭がよくなりたかったら一生懸命にやるんや」と怒ると、ちょっと引き締まった顔をしてくれる。 それがとても嬉しい。

赤も黒も黄色もとても苦労して覚えた。必ず彼はできると思う。

彼の家から帰るとき、コーチャンは私の背中に乗ってきて「いやや~帰らないで~」と甘えてくれた。
「なぁ。連れて帰りたいけどコーチャンはママの宝物だから連れて帰るわけにはいかないので、ゆうちゃんは一人で生きていくわ」と言うと、彼は
「ゆうちゃんにはお兄ちゃん(亭主のこと)がいるやろぉ」と困ったような顔をしてくれた。

なぁ。コーチャンは優しいいい子じゃないか。

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